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桜島へ

 親父さんが亡くなり、故郷の桜島に年老いた母親を一人残すことになった中元さんはすぐに転勤願いを出し、長年住み慣れた名古屋から鹿児島営業所へ異動となった。彼に会いたくて退職後すぐに鹿児島へ飛んだ。
 数年前に一日だけ彼を訪ねた翌日、二日酔いでつばめ号に飛び乗り桜島を見忘れたこともあり、今回は島一周行脚を組み入れ、150円の連絡船に乗り炎天下を歩き始めた。学生、子供、老人、ポツリポツリとすれ違う。会釈をしようかすまいか、その度に僅かな緊張感が生じる。それを何度も何度も繰り返しているとこの土地の人々の気質が伺える。後ろから追い上げてきた子供達の不意な挨拶に驚き、テント前に集まってきた早朝ウォーキングのおじさん達の質問に答え、中元さんの人懐っこさはこの島に生まれ育ったことに因るのかなと思う。
 三日間歩き天文館へ戻ったが、“実家に泊まらないか”という誘いを受け再び連絡船に乗った。わずか15分の乗船ではあるが船内には立ち食いうどんがあり繁盛していた。中元さんは“高校の頃と味が違う”と食べようとしなかったが、ともかく連絡船は僅かな時にも関わらず旅気分を大いに高揚させてくれた。
 家は白浜温泉近くの避難港から数分丘の上に建つ。彼の母親は長年畜産と農業を続けられ浅黒くがっちりとしており、その風貌と働き者で陽気なことは、同じ鹿児島生まれであるオレの祖母にそっくりであった。日の明るいうちに三人でフェリー港近くの赤褐色の温泉に浸かり、彼女の釣ったイカ刺しや甘めの味付けのゴーヤの佃煮を肴に焼酎を飲んだ。夜風に当りたく避難港まで出ると対岸の加治木町の花火大会が見えた。中元さんはすぐに母親を呼びに戻り、しばし三人で小さな歓声を上げる。その時、彼が平調子で“あっ、噴火した”と呟いた。噴煙は満月の明かりに映え、悠々と神々しくスローモーションのように膨張し、やがて空を漆黒に染めた。そしてオレ達は再び酒を飲み、唯一冷房のある部屋に三人で寝た。
 翌朝、屋根、道路、群生する椿、様は万象全てが薄っすらと灰(地元の人は“へ”という)に覆われた。灰は生活においてやっかいな代物以外何物でもないのだが、強くオレの旅気分を高揚させた噴火と降灰を、この日二人は歓迎しているかのようであった。

ジュンク西村

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