photographer says

TSUNAMI後


 その時オレは四国をうろついていた。しかし、いてもたってもおれず名物のうどんの味が楽しめない。オレはジャーナリストではないし写真のことも強くは意識しなかったが、ただ行かないと気持ちが落ち着かなくなっていた。よって旅を切り上げ、松山からフェリーに乗り山口県の実家に向かい、父親の車を借り物資を積み込み北上した。
 被災地を見た衝撃は文字で表せるものではない。現場を見なければ分からなかった自分の想像力の無さを恥じる。高校野球の開会式で17歳の少女が国歌を斉唱するのをラジオで聴く。国歌を聴いて泣くことなどオレには有り得なかった。前方を走る自衛隊の装甲車が巻き上げる砂埃と涙で前がよく見えない。左右の光景は爆撃を受けた街を彷彿させるが、一つ違うのはこの被災地は点ではなく、線として海岸線を延々と続くことである。
 一人の女性と出会う。避難所での手伝いをお願いされ引き受けた。女性らはお握りを作り、男たちは被災地から材木を運び薪を割った。避難所の食料は足りており、むしろ棲家の残った家庭に不足しているようだった。被害に遭わなかったことを申し訳なく感じ、食料を受け取りにこない老人もいるという。宿泊と食事は辞退し、米を炊いて食べ車の中で3シーズン用の寝袋で震える。東北の星が哀しいほど美しい。
 翌日、車で寝泊りしていることを知った彼女は母親と兄と暮らす家へ泊まるよう勧めてくれた。電気・水道の復旧の目処はたたず、部屋の明かりは小さな携帯ランプが一つと蝋燭が一本。そこに3人の男が来る。そしておもむろに葬式の話を始めた。その時彼女が「ごめんなさい、言わなかったけどお父さんが津波で死んだんです」と耳打ちした。入院先の高田市民病院の4階から流され、遺体は一階のロビーで見つかった。兄は地区の復興活動に手をとられ、父親が亡くなってもう10日以上が過ぎていた。そして津波から20日後に火葬された。遺影は障害者手帳の写真を引き伸ばしたものだった。
 この状況の中で彼らは身も知らないオレに一宿一飯の施しをしてくれた。すでに山口から2000kmを走っていた。もう東京までの燃料しかない。ガソリン不足の被災地で給油するわけにはいかず、翌朝東北を去ることにした。年老いた母親は庭でとれた梅干しと自家製の海苔の佃煮をオレに持たせ、いつか必ずまた来るようにと言った。彼らは一宿一飯の施しをしてくれた。

ジュンク西村


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